街裏ぴんくになりたい

 街裏ぴんくという芸人を知ってから、私の心の芸人ランキングに嵐が吹き荒れている。ここ7年程度不動の第1位である立川談志を脅かす勢いである。談志師匠に教えてあげたい。丸坊主で目つきの悪い一人の芸人が、あんたの尻追っかけてきてまっせ。

 youtubeをチャンネル登録し、新しい漫談が公開されるのを心待ちにしている。正直なぜ3,000人程度の登録者しかいなのか理解できない。文学で言えば、村田沙耶香の小説を初めて読んだ時の心境に似ている。「とんでもねぇやつが現れた。これを世の中が知ってしまったら、社会システムが崩壊する。」と勝手に思っていたあの感じに。

 Aマッソが彼を評するときに、「漫才ではあの世界にいけない。ツッコミという常識人がいるかぎり漫才は漫談ほど遠くの世界には行けない」的な発言をしていたように思う。漫才において、ボケとツッコミの関係性は、常識と非常識(日常と非日常)のギャップを際立たせる。そのコントラスト=笑いであるのに対して、彼の漫談はどこまでも常識から逸脱していく。それが本当に気持ちいい。

 これを自分の生活で考えてみると、漫才でいうところのツッコミとは仕事であるように思う。どんなに日常から離れて遠くにいったところで、仕事という日常(常識)が私を離さない。音楽フェスで泥酔して踊りまくった数時間後に、ネクタイ締めて、スーツを着て、パソコンを叩いている。そもそもネクタイって必要なのか?あのブラブラしたやつ。今の時期は、防寒にはなるけど。「お世話になっております」だの「ご査収ください」だのしゃらくせぇ。私はもっと自由になりたいのだ。概念としての街裏ぴんくになりたいのだ。私は正しく狂いたいのだ。

 

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この前初めて「指萌え」した

 

【補足】

 先日テレビ出演していた街裏ぴんくを観たが、カット割りが目まぐるしく変わる感じの演出で、いまいち面白さが出ていなかった。一対一で向き合っている緊張感がなくなってしまっていた。彼の世界に没入するための物理的な時間も圧倒的に不足していた。

生前、立川談志は「落語のピン」というの番組で、しきりにテレビと芸の関係性を模索していた。街裏ぴんくにもこの宿命がのしかかりそうだ。今後も応援してます。

うぇいよー。

給水塔のある街

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小山裕之著「団地の給水塔大図鑑」を購入した。

この本には、様々な給水塔が写真・住所付きで紹介されているのだが、ある給水塔が自分の住む町内にあることが判明した。散歩は割と好きなので、よく近くの団地を眺めては、うっとりしているのだが、給水塔が建っていたなんて。

KYUSUITO下暗しである。

早速この目で実物を見に行くべく、散歩を敢行。

家を出た瞬間から「いつ見えるのか」と胸を弾ませ、キョロキョロしてしまう。普段よりもほんの少し目線を上げるだけで、街が全く違って見える。給水塔を探しているだけなのに、知らない土地を散歩しているような新鮮さがある。現代の地図に江戸時代の地図を被せて、「ここが昔は用水路だったんですね〜」ってよくある感じのあれ。1人ブラタモリ。「給水塔」という違ったレイヤーを通して街を観察すると、違ったことを知覚する。猫の気持ちになれば、猫の歩く路地が見えるのだろう。ビガップ、坂口恭平

給水塔を見学した後、牛乳を切らしていたことを思い出し、近くのドラッグストアへ。

入店するときに、会計を終えて出てきた隣のツタヤの店員とすれ違った。20才前後の女性であると思われるそのツタヤ店員のレジ袋には、「ごつ盛り塩焼きそば」が1つ入っているのみであった。おそらく休憩中に食べるのだろう。

そのドラッグストアは、数年前から透明のレジ袋を採用しており、中が丸見えなので、レジ袋をチラッと見て、その人となりを勝手に想像することがある。どうでもいい日常がちょっとだけ楽しくなる。THE・ライフハックポカリや冷えピタを買う主婦を見て「あら、お子さんが風邪かな」と心配したり、ゴールデンカレーを買うイカツイ男性に「うちはジャワ派」などと対抗したりする。マッチで擦った火のように浮かんでは消える刹那的な妄想。

ドラッグストアのプライベートブランド牛乳とサッポロポテトのベジタブル味が入った私の透明な袋を見て、誰かは何かを思っているのだろうか。

買い物を終え少し遠回りして帰宅。今日の散歩中のBGMはミッシェルガンエレファントの「チキンゾンビーズ」。

「ブギー」を聞きながら「この曲やっぱり散歩に合うわ〜」と思った。

10年住んでおきながら、この街が「給水塔のある街」だとは思わなかった。

そんな街をこの春には引っ越すことになる。今いる会社を辞めて、春には無職となり新しい街へ行くのだ。